「父をたずねて 三千里」 私の場合


----- 父・千葉清司の戦没海域を探し当てた記録 -----
                 2006.4.6  千葉秀樹
〔ご挨拶〕 拝啓 つい先ごろまで、偕楽園の梅の香りが春風に乗って、こちら日立まで漂って来そうな気がしていましたが、気がつくと四月・桜の季節となっておりました。ご無沙汰いたしておりますがその後お変わりありませんか。 今日の手紙の内容は、タイトルに有りますように、戦死した私の父・千葉清司の戦没海域を調査した結果とその過程を皆さまに聞いて頂きたいと思い、唐突ではありますが送らせて頂きました。皆さまにとっては、どうでもよい話しなので、そんなものに付き合っている時間はない! とおしゃる方は、ここから先を読まずに、この手紙をそっくりゴミ箱へ廃棄なさって結構です。何ら恨むようなものではありません
A-1 〔序〕
私の父・千葉清司は、先の太平洋戦争で戦死(28歳)しております。この度、父の最期の航海記録を探し当てることに 成功しましたので、この時の調査結果を記録し、経過を報告させて頂きます。  調査着手日 2004.5.29 、 調査完了日 2005.12.7

A-2 調査着手前までの 〔父の戦死情報〕・・・・・母・トメの記憶によりますと
@ 戦死日:        S19.11.17 
A 戦没場所(海域):  南方沖 (轟沈)・・・・・隊長からの「戦死内報 (手紙)」 による
B 応召時の所属:   青森の陸軍
C 最後の出港地:   舞鶴港 (S19.11月)
D 本籍地:        岩手県 (現在の) 遠野市
E 出征時の勤務先:  茨城県日立市の日立製作所 当時の海岸工場 (現在の日立事業所)

A-3 その頃を振り返ってみますと
父が応召した 昭和19年6月と云うと、私は母の腹の中で7ヵ月くらいで、その年の9月に(日立市で) 生まれています。 同じ年の11月に父は舞鶴港から最後の出港し、長男(秀樹) の顔も見ることなく、11月17日に戦死しています。

A-4 その頃 (S19年) の日本をとりまく情勢は
S19年7月、東条内閣が総辞職し、小磯内閣が発足。10月23日からフィリピンのレイテ島沖で大海戦が有り、 10月24日には不沈艦・武蔵も沈没し、日本軍は壊滅的打撃を受け、以後日本軍の戦局は悪化の道を辿ります。

B-1 [調査しようとした動機と目的]
そもそも、60年も前のそんな古い話をなんで今ごろになって調べる気になったのか、と申しますと 以前から父の戦死情報の中で判然としないことが一つ有りました。それは、戦死場所(轟沈) が「南方沖」と云うことで、 これが南シナ海なのか東シナ海なのか、或いはフィリピン近海のことなのか場所を特定するにはチョット曖昧で 判然としません。 と云いますのも、二年に一度くらい「今回は南西諸島」 とか「今回はペリリュー島」 とかの「洋上慰霊の募集」 が 遺族会より有ります。父の沈んだ場所が分かっているのなら、仮にその場所に行けなくても、遠くの洋上からでも そちらの方向に向かって手を合わせることも出来ますが、それがどこなのかも分からない半信半疑のままではと 慰霊参加にとまどっていました。 次に、何故今なのか(?) と云いますと、私自身退職したのを契機に、落ち着いて取り組みもう少し正確な情報がないものか(!?) と思案しておりました。と云ってもどこから手をつけて良いものやら皆目見当がつかず日々が過ぎていきました。

B-2 〔調査着手からの経過〕・・・・・調査のとっかかり
私自身が一番知りたい情報は、父が戦没した場所(海域) が「南方沖」 とは一体どの当たりのことを指す(?) のか と云うことです。それを解明するには、父が乗船していた船名が分かれば、或いは場所も特定できるのではと 考えました。
そんなある日、インターネットで偶然「戦没船質問コーナー」 と云うホームページを見つけました。 この運命的な出会いが私の背中を押してくれることになり、この時から私の謎解きが具体的に動き始めた訳です。
質問するにしても、戦死日と青森の陸軍、そして最後に出港したのが舞鶴港と云う、これだけの情報で60年も前の ことが分かるのだろうか(?) と半信半疑で質問をぶつけてみました。
するとどうでしょう、すぐ 回答があり 「S19.11.17 に沈没した船舶は9隻あります。」 そして驚くことに、 この9隻の船名はじめそれぞれの航跡、乗船していた部隊名、沈没場所、果ては魚雷を発射した 米軍・戦艦名まで明快に記録されていたのでした。私はこの系統的で正確なデーターには感服しました。 ここまでは、予想以上の成果だった訳ですが、では、9隻の内どれなのかを特定するには、こちらの情報が曖昧で、 つまり、部隊が青森の陸軍、最後の出港地が舞鶴港だけでは、さいごの1隻に辿りつくことは出来ません。 それで、次に上記「戦没船質問コーナー」 の回答者と何度か交信するうちにヒントをもらい、国の機関に問い合わ せることにしました。
その頃、電話番号が分かっていた総務省・恩給局に聞いたところ「戦死者の本籍地の岩手県庁を紹介されました」 。  早速、岩手県庁に問い合せると、親切な応対で調べてもらった結果、父の「軍歴書」 なるものが存在することが 分かりました。この中に、父の応召から戦死までの軌跡が克明に記載されていました。 私が知りたい「沈没場所:朝鮮・済州島 西方海上」 の記載が有った訳です。。 これで本望達成でした。 ただ残念なことに「軍歴書」 には、乗船していた船名は記載されていません。 ここまでくると、「乗船名」 まで、どおしても知りたいと思うようになりました。
そこで、今度は母・トメが国へ提出して控えなど何も手元に残っていない「戦死公報」 がどこかの機関に有りは しないか(?) と厚生労働省と岩手県庁、そして本籍のあった遠野市役所にあたったのですが「ナシ!」 の回答でした。 ただ、ここでの収穫は遠野市役所から「父の除籍謄本」 を取り寄せたことです。 と云うのも以下にでてくる「乗船名」 を特定する決定的な沈没時刻 18:15 が印されていたからです。
この「乗船名」 の特定には、上述の「戦没船質問コーナー」 の回答者の貴重な情報・示唆で 父の所属した部隊である「第14方面軍・独立無線第3中隊 (と云うからには父は通信兵だったようです) 」 から フィリピン守備を主任務にしていた第14方面軍で、目的地がフィリピンと云うことになり、9隻の航跡から2隻に絞り 込むことが出来ました。 一隻は空母「神鷹(しんよう) 」 で沈没時刻が 23:03 。 もう一隻が輸送船「摩耶山丸(まややままる) 」 で 沈没時刻が 18:15 。これで、父が乗船していたのが「摩耶山丸 」 に違いないと確信した次第です。

C 〔調査結果とその出典〕  
(ア): 母・トメの記憶・・・・・「戦死公報」 は恩給申請時、国へ提出スミで手元には控えも何も残っていない  
(イ): インターネット・ホームページ「戦没船 質問コーナー」の回答者  
(ウ): 軍歴書・・・・・岩手県庁より取り寄せたもの  
(エ): (千葉清司の) 除籍謄本・・・・・遠野市役所から取り寄せたもの

上記の出典により、父・清司の戦没時の新たな事実が判明しました。
(ア) → 戦死日: S19.11.17
(ウ) 、(エ) → 戦没海域: 朝鮮 済州島 西方 約 120km 海上 (北緯33度21分、東経124度 42分) で、
(イ) → その時、乗船していた船舶名: 摩耶山丸 (陸軍 輸送船) 
  (佐賀県) 伊万里湾を出港しフィリピン向け派遣部隊を乗せてマニラ港に向けて航行中に
(イ) →アメリカ潜水艦ピキュダの魚雷を受けて瞬時に横転沈没し、兵員 3,187名、船砲隊員 194名、船員 56名が死亡。
(ウ) → 所属部隊名: 第14方面軍(司令官:山本奉文大将) 独立無線第3中隊
(ウ) → 隊長: 伊王野 鐐 陸軍大尉

D-1 〔調査を終わっての私の感想〕
今回の調査で、父の軌跡が分かり、そして、どう云う目的でどこに向けて航行していた何と云う船に乗船している時に、 どこの場所で沈没したのか。又、同船していた部隊(名) 、隊長名など当初、私が抱いていた疑問点が、ひとつひとつ 明らかになりました。 今の私の心の中は 「今までの目の前の霧がサーっとひいて、にわかに視界がひらけ、向こう岸が見えた思いです。」

D-2 〔現在の日本の立場と靖国問題〕
今、日本が置かれている立場、直面している課題から考察する時、
1. イラク派遣の延長線上に有る9条など憲法改正が (自民党優位の中) 現実味をおびてきた。
2. 一方、隣国北朝鮮の核保有による脅威(!?) 身にかかる火の粉を(おんぶにだっこの) 日米安保条約に委ねる だけで充分なのか(?) 本当の意味で自衛の必要性が問われているのではないかと思います。
憲法(9条、他) 改正については、私達の子や孫が武器を手に外国に赴く事態は絶対避けねばならないと強く思って います。
戦地で亡くなった人々はじめ、この戦争で命をなくした人達・犠牲者の悲願が今の憲法に込められていると思います。 その無言の叫びに応えて、戦争に参加することなく、平和の道を共に歩み続けたいと願うものです。
又、最近の話題として、小泉首相の靖国神社公式参拝の是非については、
「時の総理大臣に(国民を代表して) 靖国神社の公式参拝を望むか」 と問われれば、 
私は戦死者の遺族だからと云って、単純には公式参拝を支持できません。その心は、義務教育では教わらなかった 「あの時代、国民を戦場に駆り立てるために、国家・軍部に利用された側面を持つ靖国神社だった」 ことを想うからです。 (中国、韓国から批判されているからではありません) 

D-3 〔謝辞〕
次に遺族会より「洋上慰霊の募集」 ある時は、確信を持って参加し「父さん! 来たよー」 と云って手を合わせたい と思っています。
最後になりましたが、ご家族みなさまのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。 お忙しい中、私のつたない報告文に最後までお付き合いいただき本当に有り難うございました。

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